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建設委員会の活動

「女たちの戦争と平和資料館」建設委員会では、テーマごとにチームに分かれて準備を進めるとともに、資料館の理念を伝えるシンポジウムやセミナーを開催してきました。

各チームの活動紹介 | 2004年イベント | 2003年イベント | 各イベントの詳細

各チームの活動紹介

■現代チーム
「慰安婦」被害者への暴力は過去のできごとではありません。それは世界各地の戦争・紛争、紛争後の復興期、軍事占領下、軍事基地周辺で起こっている女性への暴力に、連綿と受け継がれた人権侵害です。「現代チーム」では女性の被害実態を明らかにするだけではなく、サバイバーの声を聞き、そこから始まった女性たちの運動と連帯していきます。現在、海外の女性団体とネットワークを組んで情報収集を行っています。アフガニスタン、ネパール、カンボジア在住のメンバーが一時帰国の折には、学習会も開催する予定です。

■「慰安婦」チーム
女性国際戦犯法廷をわかりやすく伝えるため、現在、「法廷」のスナップ写真の整理や資料の整理に取りかかっています。「慰安婦」コーナーには「慰安婦」関係の資料、活動の足跡なども展示したいと考え、関連書籍や資料の寄贈を呼びかけています。また、アジア各国の「慰安婦」被害者証言集会全7巻の「南北コリア編」の編集作業を進めていますが、その作業を通して国内の支援団体やアジア各国との協力関係を更に築いていきたいと思います。

■映像記録チーム
映像記録チームでは、「慰安婦」被害者や日本軍元兵士の証言を中心に、各地の資料館・記念館の視察や関連の学習会や講演会なども撮影してきました。これまで様々なテープで撮影してきた映像素材を、どのような形で保存・公開したらいいかを検討中です。この秋からは撮影済み素材テープの整理とリスト化の作業を開始しました。戦争の記録を撮ってきた自主ビデオのグループや映像作家たちとの情報交換や交流にも力をいれています。

■松井文書チーム
松井やよりさんは68年の生涯のなかで、自分が書いたもの、読んだもの、集めたもののほぼすべてを保存していました。それは松井さんの目をとおして記録された1950年以降の歴史そのものです。松井文庫チームはこの膨大で貴重な資料を活用できるよう保管し、資料の全体像をつかむことから始めました。著作物の展示閲覧、データベース公開、新聞記事のファイル展示などのために、ただいま資料の整理をおこなっています。

■沖縄チーム
戦時中には130以上の慰安所があり、現在も米軍基地下にある沖縄は、地域全体がそのまま生きた資料館のような場所。沖縄チームでは個人が蓄積してきた資料を規格統一して、「資料館」にどう生かすかを考えています。整理の検討とともに、まだ知名度が低い「女たちの戦争と平和資料館」運動をどう広げていくかも課題です。米軍ヘリ墜落現場の壁保存運動などにも連動していきます。

■ベルリン女の会
戦後60年になろうとする今でも、ドイツではナチズムの歴史をめぐる論議は盛んになるばかりです。加害の歴史を記録し記憶するためにドイツが試行錯誤を重ねながら蓄えてきた知識や経験を、市民運動グループや専門家と日本の人々の交流を通して日本に紹介することで、「ベルリン女の会」は資料館建設に貢献したいと考えています。これからは2005年に予定されているスタディツアーの準備が大きな仕事になりそうです。

■データベース構築チーム
「資料館」に求められるデータベースのあり方を検討しています。各チームからのデータベース化すべきデータ(テキスト・画像)を収蔵することから始めますが、公開後も充実化がはかれ、活用し続けられるようなデータベースを運営していくために、ハード・ソフト両面から様々な方法を吟味しています。この分野に精通した方の参加を歓迎します!


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2004年イベント

日  程内   容
2004年12月21日(火)チャリティイベント「つながってつくろう! 暴力のない世界」
2004年11月25日(木)ビデオ上映&公開セミナー
「正義を実現する戦後補償とは? 日系ペルー人・忘れられた強制連行の悲劇」
2004年10月9日(土)国際シンポジウム「加害の歴史を記録する」
トーマス・ルッツさん(ドイツ)を招いて
連続公開学習会
「加害の歴史を記録する」国際シンポジウムのプレ企画として、さまざまなテーマで勉強会を重ねました。
2004年8月31日(火)(第4回)
ナチズムが残した「負の遺産」と戦後ドイツの模索
講師:石田勇治(東京大学助教授)
2004年7月24日(土)(第3回)
「戦争のための戦争記念館と平和のための戦争記念館」
講師:南守夫(愛知教育大学)
2004年6月24日(木)(第2回)
「<歴史を逆なでする>博物館のこれまでとこれから」
講師:君塚仁彦(東京学芸大学教員)
2004年4月3日(土)(第1回)
「加害の歴史を忘れないドイツ〜ベルリンに暮らして見えてきたこと」
講師:梶村道子(ベルリン「女の会」)

2003年イベント

日  程内   容
2003年12月21日(日)松井やよりさん追悼1周年記念シンポジウム
「戦時性暴力をどう記録するか」〜ドイツと韓国の試みに学ぶ〜
朗読劇「地球という小さな星の上で」
2003年10月4日(土)NPO法人取得記念シンポジウム
「戦時性暴力をなぜ記録するのか」
女たちの戦争と平和資料館建設の意味と意義を考える

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各イベントの詳細

2004年12月21日(火)
チャリティイベント「つながってつくろう! 暴力のない世界」

女たちの戦争と平和資料館建設のためのチャリティ・イベントがアジア女性資料センター、VAWW-NETジャパン、女たちの戦争と平和人権基金の共催で行われ、会場の江戸東京博物館ホールは300人の参加者で埋まりました。

第1部は、辛淑玉さんと高里鈴代さんのスペシャル・トーク。高里さんは那覇市長選に惜敗して間もない時でしたが、選挙のテーマソングに合わせて元気に登場。実は7年前の12月21日は、辺野古の海上基地をめぐる住民投票で住民がNO!という結論を出した日でした。「沖縄の選挙では立候補者は相手候補とではなく、日本政府と闘っているのです」と高里さんは語ります。辛淑玉さんは、イラクで人質になって武装集団に殺された香田証生さんの映像を再現して、「命そのものが殺されてきたのに、みんな見て見ないふりをしてきた。沖縄、部落、障がい者、性的マイノリティ、朝鮮人にとっての戦後を勝ち取りたい」、そして女たちの考え方や行動様式にこそ民主主義の基本があるといいます。厳しい闘いをしてきたお二人ですが、「今が一番好き」「来年はやりたいことがいっぱい」と、闘いを持続する知恵やユーモアの大切さを実感するひと時でした。

スペシャル・トークの後は、寿(kotobuki)のミニ・ライブ。伸びやかな歌声のナビィと宮城さんの三線で、沖縄、コリア、オリジナルの歌と、ユーモアたっぷりのトークに酔いしれました。続いてはプンムルペ・ウリトによる農楽です。晴れやかな衣装と力強い太鼓による朝鮮半島の農村の伝統的な音楽。会場を田んぼに見立てて、太鼓を叩きながら練り歩きます。寿のうたとウリトの太鼓があわさったフィナーレでは、辛淑玉さん、高里さん、そして松井やよりさんのご遺族もステージにのぼって踊りまくり、会場もほぼ総立ち。音響技師さんは「お客さんは、どこの国の方ですか?このホールでここまで盛り上がるなんて」と驚いていたとか。

入口ホールには画家の富山妙子さんが20年ぶりに作った絵本『けろけろ ころろ』と「慰安婦」をテーマにした作品のコラージュ。絵本のモデルとなった、松井さんが集めていたカエルの置物も添えました。松井さんと親しかった友人の名前が織り込まれた2メートル四方の大きなキルト(野村三枝子さんの作)も展示されました。

このイベントの収益金は合計で59万5396円。実行委員会から「女たちの戦争と平和資料館」建設委員会に寄付されました。また会場で集めた辺野古へのカンパは14万円を超え、高里さんに託されました。

2004年11月25日(木)
ビデオ上映&公開セミナー「正義を実現する戦後補償とは? 日系ペルー人・忘れられた強制連行の悲劇」

2004年11月25日池袋の東京芸術劇場で、ビデオ上映&公開セミナー「正義を実現する戦後補償とは?〜日系ペルー人・忘れられた強制連行の悲劇〜」がVAWW-NETジャパン、女たちの戦争と平和資料館建設委員会、アジア女性資料センターの共催で行われた。

第二次世界大戦中に米政府によって日系アメリカ人が強制収容所に入れられた歴史はかなり知られているが、南米に住む日系人が収容された事実を知っている人はほとんどいない。もちろん歴史教科書にも載っていない。今回、アメリカで「日系ラテンアメリカ人へ補償を!正義を求めるキャンペーン」や日系ペルー人の強制収容・送還の経験を記録する「日系ペルー人オーラルヒストリープロジェクト(JPOHP)」のメンバー3人を招き、ドキュメンタリービデオ「隠された収容所:アート・シバヤマの物語」の上映会とともに活動について話しを聞いた。

まず、「隠された収容所:アート・シバヤマの物語」の製作者ケイシー・ピークさんは、製作過程で「9.11」が起こり、それ以降アメリカではイスラム系、アラブ系、南アジア系の人々に対して逮捕、嫌がらせ、収容、強制送還が起こっていると指摘。また今回の日本上映ツアーで、日本に住む移住労働者も似た経験をしていることを知り、戦争や紛争が起こると同じようなことが起きると話した。ビデオでは日系ペルー人シバヤマさんの経験を中心に、ペルーにおける移民排斥の歴史、真珠湾攻撃以降の日系人強制連行の事実などが紹介された。シバヤマさんは「不法滞在者」でありながら朝鮮戦争のときに「徴兵」された。戦後ようやくアメリカ市民権が与えられたが、現在は謝罪と補償を求めて訴訟中である。

グレイス・シミズさんは、2004年6月に97歳で亡くなった収容所体験者だった父のことから話し始めた。グレイスさんの父は18歳で広島からペルーに労働者として移住し、20年後の38歳のとき米政府によって強制連行された。連行途中、パナマで強制労働させられ、その後米国テキサス州の収容所に強制移動。戦後、他の日系ペルー人が日本に強制送還させられる中、父は抵抗しつづけ、最終的にはカリフォルニア州に住む親戚を頼って米国に「不法滞在者」として残り、1950年代初めの入管法改正によってはじめて永住権が取得できたという。グレイスさんが父の強制連行や収容所での体験を知るきっかけとなったのは、1990年代初めに、日系ペルー人オーラルヒストリープロジェクトにかかわるようになってからだ。父はそれまで戦争中の体験について積極的に語らなかった。

ウェスリー・上運天(うえうんてん)さんは「アイデンティティとカルチャー」をテーマに話した。沖縄系アメリカ人3世として育った経験の中で、自分のアイデンティティ形成は「ナショナリズム」と「文句も言わず汗水流して働き成功した移民」という日系人に対するイメージ(“モデルマイノリティ”)の2つが基礎となってきた。しかし95年の米兵による沖縄の少女強かん事件後アメリカに来た沖縄の女性運動家たちと出会い、日系ペルー人強制連行問題との関わりを経て、アイデンティティを作り直さなくてはならなくなったという。それは表面に見えている「綺麗な歴史」だけではなく、「隠された歴史」から学ぶ作業だ。ウェスリーさんが子どもの頃、祖母は手の甲にあった刺青を隠していたといい、昔は主流の文化と「違うもの」は隠さなければならなかったが、現在では沖縄ブーム、コリアンブームという現象が起こり、主流文化との「違い」が流行していることを指摘。文化やアイデンティティが形成されてきた歴史的政治的背景が忘れ去られている今、隠された歴史を語り継がなくてはならないと語った。

下記に引用するグレイスさんの言葉に、私たちが日本で日本政府の過去の犯罪を問いつづけていく意義を再確認した。

「戦後60年が経っても、アメリカ政府が過去に犯した不法行為に対する責任から逃れることはできません。不法行為を認識し謝罪し、補償することが、被害を受けた家族にとって大変重要なのです。これらが実現されて初めて“アメリカが人権、民主主義と平和の守り手である”という主張をより真摯に信じられるようになるのです。」

2004年10月9日(土)
国際シンポジウム「加害の歴史を記録する」 トーマス・ルッツさん(ドイツ)を招いて

明治大学(東京)で女たちの戦争と平和人権基金と教科書・歴史教育学会の共催による国際シンポジウム「加害の歴史を記録する〜ドイツ・記憶の保存と‘過去の克服’」が開かれました。2004年は台風や地震など自然災害が多い年でしたが、シンポジウム当日も大型台風が日本を直撃、テレビで「外出はお控えください」というメッセージが流れるという状況…。そんななか、80名の参加者が質の高い議論に耳を傾けました。

基調講演は、ドイツ「テロルの地勢財団」記念館部門室長のトーマス・ルッツさんです。ルッツさんは強制収容所などナチズム関連施設での記念館建設・運営の相談にあたり、全国に散らばる関係施設のネットワークの推進や教育活動を行っているキー・パーソンです。22枚にわたるパワーポイントの映像資料を使って、ルッツさんはビジュアルに話を進めました。

戦後ドイツにおいて、ナチズムの被害者を追悼する施設ははじめから今のような形ではなかったといいます。東ドイツでは、ナチズムに反対した共産主義者の抵抗運動を賛美していたし、西ドイツでも1950年代から1970年代の追悼施設では、そこで何が起こったのかが、よくわからないようなものだったといいます。その後、自分の親たちが何をしていたかを問うた1968年世代の学生運動を契機に、どこで誰が殺されたのかという場所の確認や、今までナチズムの被害者と認定されなかった安楽死や同性愛者の被害者の発掘が始まりました。そしてドイツ人の中に自分たちが暮らしていた身近なところで犯罪が起こったこと、自分たちもまた加害者であった、という位置づけがなされていったのです。

「ドイツでは、ナチ犯罪の証拠はいまや不要です。もうナチ犯罪が行われたことに疑問をはさむ余地はない。今はどのように伝えていくが重要になってきています」とのルッツさんの言葉に、いまだに政治家やマスメディアが日本の戦争犯罪を否定する発言を繰り返している日本との差を感じ、うらやましくもありました。

80年代から本格化したドイツにおける加害の記録と記憶を残していこうという動きは、Gedenkenstaetteと呼ばれる記念・追悼施設に特徴づけられます。これは、gedenkenという加害を記憶する、という動詞から派生していて、記憶すること(erinnern)とも、追悼すること(trauern)とも違います。過去の犯罪的なできごとに思いを馳せて直視し、被害者を悼むこと。そのような加害の記憶を社会的に共有する公的記憶施設であるGedenkenstaetteには3つの条件があります。それは、現場であること、施設だけではなく説明の展示をしていること、継続的に活動を続けていること。現在ドイツには100のGedenkenstaetteがあるそうです。

ルッツさんは被害者との会話に大きな影響を受けたと語っていました。しかし高齢の被害者は外に出て証言するのは困難になってきているため、証人の証言が次の世代に引き継がれていくように制度化するのが大事だといいます。

「被害者を悼むことはできても、自分たちが加害者であることを認識するのは困難です。しかし、それをしなくては、また同じ過ちを犯す可能性がある。そしてナチズムがおかしかったのではなく、ナチズムもドイツ史の一部であると認めることが必要です。今後も、Gedenkenstaetteにおいて、ナチズムの犯罪を正確に記憶し、伝え、新しい過去との取り組みの形を示していきたい。25年前にスタートしたこの動きも唯一ではなく、新しい世代には新たなやり方があるでしょう。そして、私の取り組みもまた、歴史の一部なのです」と締めくくりました。

第2部は、「日本とドイツの対話」と題して、池田恵理子さん(女たちの戦争と平和資料館建設委員長)が「『慰安婦』被害者と記録の保存運動」について、金富子さん(植民地朝鮮・ジェンダー史研究者)が、関東大震災の朝鮮人虐殺の企画展に関わった経験から「加害の記録・被害の記録」について、内海愛子さん(恵泉女学園大学教員)が、戦争の記録の保存に関する日本政府の審議会に関わった経験から「日本の資料公開とアジア」について、そしてドイツ史研究者の石田勇治さん(東京大学助教授)が「ドイツが照らし出す 日本の現在」と題して、日本とドイツの過去の克服に対する取り組みをわかりやすく比較・説明してくれました。

連続学習会

ドイツのアクティブ・ミュージアム運動に学ぼう」を合言葉に、国内外の戦争博物館の検証を通して「国家と戦争」を考えていく公開学習会が4月から始まりました。ここは建設運動に関わるメンバーの学びの場であり、「資料館」建設を市民に広げていく場でもあります。毎回素晴らしい講師を迎えて、熱気に包まれた質の高い学習会になりました。

  • 第1回 2004年4月3日(土)

    梶村道子さんによる「加害の歴史を忘れないドイツ〜ベルリンに暮して見えてきたこと〜」。30年近くベルリンに住む梶村さんは、「ナチスによる加害の記録と犠牲者追悼の記念碑や加害の現場に作られた記念館は、市民がナチズムの歴史に自分の問題として向き合う中で建設された」と言います。1970年代前半までは強制収容所の元囚人たちが中心になって行っていたものが70年代後半からは市民レベルでの取り組みになり、ドイツ統一も幸いして、90年代にはその成果が結実し、今日に至っています。こうした背景には、しばしば68年世代による反ファシズムの動きが指摘されますが、「それだけではない。60年代のマスメディアの役割・アイヒマン裁判やアウシュヴィッツ裁判・戦争犯罪の時効論争などの積み上げがあったからです」と梶村さん。私たちはここで「アクティブ・ミュージアム運動」の存在を知って共感し、大いに励まされました。

  • 第2回 2004年6月24日(木)

    君塚仁彦さん(東京学芸大学)による「〈歴史を逆なでする〉博物館のこれまでとこれから」。 東北アジアの戦争博物館を研究中の君塚さんは公立の資料館の学芸員だった経験もふまえて、日本の戦争博物館の歴史と現状を分析しました。日本では1980年代後半から国公立の戦争博物館が増えてきましたが、侵略や加害の歴史はほとんど取り上げず、90年代後半からは自由主義史観派や右派のマスコミ、地方議会などによる攻撃が激化。加害展示の撤去や修正が行われてきました。「戦争の記憶における加害事実は隠蔽・否認・歪曲という暴力にさらされている。だからこそアジア諸国の戦争博物館との交流や共同作業が重要です」。こうした中で、沖縄・伊江島のヌチドゥタカラの家、京都の丹波マンガン記念館、奈良のエイズ資料館など、市民の手による〈歴史を逆なでする〉博物館の重要性が語られました。では公的な戦争資料館はどうなっているのでしょうか。

  • 第3回 2004年7月24日(土)

    第2回の内容に応える形で、南守夫さん(愛知教育大学)が「『戦争のための戦争記念館』と『平和のための戦争記念館』」をテーマに、「日本では国立の歴史博物館で戦争の歴史が展示できない」という現実を教えてくれました。この200年間に世界各国で作られた戦争記念館と平和記念館の流れを詳細な年表にすると、日本の姿が浮かび上がってきます。南さんが調査を続けている自衛隊の戦争博物館(全国24カ所)には、@遺品の展示が多い、A戦没兵士―特に特攻隊員を英雄視する、B侵略戦争への反省がなく、戦争の被害も加害も伝えていない…という特徴があります。これらは豪華にリニューアルされて、年間数十万人もの来館者があるということですが、実態はあまり知られていません。「そこは日本人の戦争認識を形成する場所になっています。私たちは関心を持って視察し、批判の対象にすべきではないでしょうか」と言われました。公的な戦争博物館が「戦争を曖昧にする‘忘却の穴’」になっているのです。

  • 第4回 2004年8月31日(火)

    石田勇治さん(東京大学)の学習会は「ナチズムが残した『負の遺産』と戦後ドイツの模索」でした。ドイツと日本の「過去の克服」はどう違うのかを明らかにしていく興味深い内容でした。日独の違いを生んだ要因としては、冷戦構造と外交政策(日本の外交はアメリカ一辺倒でアジアに向き合わなかったが、ドイツは欧州各国との和解に努め補償も行った)がよく指摘されますが、日独共に公職追放はあっても戦前の人脈は連続しており、個人レベルでは戦前の価値観が残っている点では共通しています。日独の大きな違いは、政府が「過去の克服」(過去の過ちを認め、教訓を導き出し、それを未来に生かそうとすること)に本気で取り組んできたかどうかにあります。ドイツでは公的認識としてナチズムを悪とし、被害者への謝罪と補償、戦争犯罪の訴追、規制、教育などを行ってきました。しかし日本では政治家が口先で「過去の過ちを繰り返しません」と言うだけで、戦前の価値観を公的に否定しておらず、「過去の克服」はなおざりにされています。それはこれまでに検証してきた国公立の戦争博物館の現状からも明らかです。石田さんは、福岡の中国人強制連行裁判の過程で発見された、「強制連行の記録はない」と虚偽の国会答弁をするよう指示する外務省の極秘文書(1960年)について触れ、「日本でも60年代から市民による『過去の克服』は始まっていましたが、政府が一貫して事実を隠蔽してきました」と言います。つまりドイツの「過去の克服」は政府がやっていますが、日本では市民が担ってきたのです。私たちも今まさに、市民による「過去の克服」という歴史的な課題に取り組んでいるところだと言えましょう。

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